音楽祭とは、一定の期間に演奏会やオペラ公演を集中的に行う行事の総称。英語 music festival と同義の名称が他の言語にも見られるが,〈音楽週間〉〈祝祭週間〉〈祝祭公演〉〈音楽の日々〉などの意味をもった名称を冠している催しもある。
音楽祭の源流にあたるものは,中世の吟遊詩人たちの歌合戦あたりに求めることができるが,現在一般に行われているような形ができたのは19世紀後半以降である。
ことに第2次世界大戦後は,各国でおびただしい数の音楽祭が創設され,観光ブームとあいまって隆盛をきわめている。
クラシック音楽系の催しを傾向別に概観してみると
(1)楽聖とそのゆかりの地にちなんだもの バイロイト音楽祭(ワーグナーの作品のみ,ドイツ),ザルツブルク音楽祭(モーツァルトの作品が主体,オーストリア)など。
(2)大都市の名を冠した総花的なもの ウィーン芸術週間,〈プラハの春〉
国際音楽祭,大阪国際フェスティバルなど。
(3)オペラを中心とするもの ベローナ野外オペラ祭(イタリア),ミュンヘン・オペラ祭など。
(4)歴史的建造物を会場とするもの フランドル・フェスティバル(ベルギー)など。
(5)優れたオルガンのある教会を会場とするもの ニュルンベルク国際オルガン週間(ドイツ)など。
(6)現代音楽祭 ドナウエッシンゲン音楽祭(ドイツ),国際現代音楽協会(ISCM)世界音楽祭(毎年開催国を異にする)など。
ポピュラー音楽の分野で比較的歴史があるものはジャズ祭に多く,ニューポート・ジャズ・フェスティバル(アメリカ),ナショナル・ジャズ・ブルース・フェスティバル(イギリス)などが代表格だが,近年では歌謡祭も盛んで,このジャンルでは音楽祭の名を掲げながら,コンクールの性格をもつものが多い。
ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと共に、「ブリティッシュ・ロック3大ギタリスト」と呼ばれていた。今もロックやブルースのギタリストの多くに影響を与え続けている。
ブルースに影響を受けることから出発したクラプトンの音楽上の功績は、「アフリカからアメリカに奴隷貿易によって連れてこられた黒人たちの憂鬱(Blue)な気分や絶望観を歌ったものが起源の黒人の大衆音楽」=「ブルース」を、白人の感覚で解釈し直したことにある(ホワイトブルース)。ブルースの精神をロックと融合させることによって、より広い世界で鑑賞できる音楽に発展させた。また、ギターを単なるヴォーカルの伴奏から脱皮させた功績も大きい。
ヤードバーズ脱退後、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズに参加。ロンドンの街中に“CLAPTON IS GOD”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった。(ただし、クリスチャンであるクラプトン本人は、このあだ名をけっして望んでいない) その後、ジャック・ブルースやジンジャー・ベイカーらと「クリーム」を結成。メンバーの即興演奏をフィーチャーしたジャム・セッションや実験的な音楽で、ビートルズに対抗できる唯一のバンドと言われた。しかし、才能をぶつけ合い素晴らしい演奏が生まれる一方で、メンバーのエゴの衝突により人間関係が悪化、バンドは空中分解する形で解散。その直後、スティーヴ・ウィンウッドや先のベイカーらとブラインド・フェイスを結成し、1枚のアルバムを残して解散した。
そこから新天地を求めてアメリカに渡り、南部のミュージシャンと組んだデレク・アンド・ザ・ドミノスを経て、様々なセッションにギタリストとして参加する一方、本格的なソロ活動をスタートした。現在もソロ活動を続け、自ら作曲し歌い(当然、ギターを弾き)、適時にヒット曲を出す。1974年9月14日付のシングルチャートではボブ・マーレィのカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」(I Shot The Sheriff)でナンバー1を獲得しているが現在の所、クラプトンのシングル第1位は、この1曲のみとなっている。
1970年代には薬物依存症、1980年代にはアルコール依存症、交通事故、胃潰瘍、愛妻パティ・ボイド(親友でもある元ビートルズのジョージ・ハリスンの前妻)との別離を経験。
1990年代初めには、イタリア人女優との間にもうけた初めての子供が、ニューヨークの高層マンションの窓から転落死するといったように、数々の災難に遭い人生の辛酸を味わったが、そのたびに立ち直り、そうした経験を糧にますます演奏に奥行きを加えて、世界の第一線のミュージシャンとして活躍を続けている。かつての多くの音楽仲間が薬物で命を落とし、あるいは加齢とともに音楽活動から遠ざかる中で、生き残ったクラプトンが80年代末ごろを境に音楽活動に再び本気で取り組みはじめた意義は大きい。
1991年、自らのバンドを従え、ジョージ・ハリスンのバックバンドに徹して参加し、日本だけのツアーを敢行。途中、ジョージの休憩を兼ねて、自らの楽曲を演奏するコーナーもあった。ジョージの世界ツアーの呼びかけに対して、亡くなった自分の息子の為の楽曲の録音をツアーの為にキャンセル。ジョージとしては、これが最後のライヴツアーとなった。そして亡くなった自分の息子に贈った歌が名曲「ティアーズ・イン・ヘヴン」(Tears In Heaven)である。なお、この曲は1992年に全米シングルチャート第2位を記録している。さらに93年には年間最優秀曲に選ばれ、この歌が収録されたアルバムも最優秀アルバム賞を獲得。
1996年、映画『フェノミナン』にカバー曲、「チェンジ・ザ・ワールド」を提供している(元々はカントリー・シンガーのウィノナ・ジャッドが歌っている)。この曲でクラプトンはグラミー賞のソング・オブ・ジ・イヤーを獲得している。ちなみにプロデューサーはベイビーフェイス。
近年
世界各国でのツアーを行い、来日公演も多数(2006年秋=17度目)。クラプトン本人は大の日本好きであることも知られており、ツアーでなくプライベートでも格闘技イベント(PRIDE) を観戦するためなどで来日している。また、20世紀末頃から何度かあった「来日は今回が最後」発言についても、「『最後』という言葉を使うと、客が沢山入ると思った。」という、本人のインタビューでの回答があったことから、ツアーを続けていることへの「言い訳」とも、単なる「ジョーク」ともいわれている。「『大規模な』ツアーは最後になる」と言っただけであったが世界中のメディアが屈解して報道してしまったのが真実である。
イギリス女王即位50周年式典のライヴでは、ジョージ・ハリスン死去への追悼として、元「ビートルズ」のポール・マッカートニーと共に、ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスを演奏し、当時の録音同様リードギターを担当し、加えて特別にリードボーカルも担当する。
1999年、かねてから自身の所有するドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」への資金捻出のために所有するギター104本をニューヨークのクリスティーズのオークションに出品した。その中には「愛しのレイラ」をレコーディングしたストラトキャスター「ブラウニー」が含まれていた。2度目のオークションは 2004年6月24日に開かれ、出品された56本の中には彼の使用したギターで最も有名で長年愛用したブラッキー('56年製のフェンダー・ストラトキャスター)の愛称を持つギターも含まれ、当初の落札予想価格を大幅に越え最終的に95万9,500ドル(およそ1億520万円)の価格がつけられ「世界一値段の高いギター」となった。 エリックは友人でもあったジミ・ヘンドリクスがライブパフォーマンスでよくギターを壊すことから、彼へのプレゼントとして、ツアー先で楽器店に立ち寄る都度、程度の良いストラトキャスターを見つけては購入していた(ジミ・ヘンドリクスは左利きだが、右利き用のストラトキャスターをそのまま流用していた)。ツアーが明け、エリックが買い求めた幾本ものギターをプレゼントする直前に、彼は飲酒後に睡眠薬を服用して睡眠、翌日未明、嘔吐物を喉に詰まらせて死んでしまったため、結局プレゼントするにはいたらなかった。エリックは自身が買い求めた同じ型のギターをパーツごとに分解し、それぞれのパーツで最も良いものを1つずつ選んで一本のギターにしたのがブラッキーだという逸話も、世界一値段が高くなる要因を作ったともいえる。
2004年11月3日、イギリス政府より、ナイトの爵位に次ぐとされる、「大英帝国第三級勲位」(CBE)が授与された。
2005年にはクリームの再結成ライヴが5月に4公演(5月2、4、5、6日)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、10月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3夜連続で当時のオリジナルメンバーで行われた。 また同年1月19日に愛・地球博のテーマソングとして作詞、作曲を手がけた「Say What You Will」をSMAPが、「友だちへ〜Say What You Will〜」としてカヴァーし発売した(日本語詞は竹内まりや) 。
日本でのアルバム売り上げは1999年発売のベストアルバム『BEST OF』が200万枚、1992年発売のライブアルバム『アンプラグド』が120万枚(全世界では1500万枚)など。
その優美なテクニックから「スローハンド」と呼ばれる。「余りに速すぎて遅く見える」から、と一般的には言われているが、実際には若い頃、プレイ中にギターの弦を切ってしまい、弦を張り代えていたところ観客が催促の手拍子をし始めた。ゆっくり手拍子することをslow handclapといい、その言葉とClaptonを掛け合わせたロンドンっ子の造語である。
余談であるが、トンカツが大好物である。来日したときにはトンカツ屋に必ず立ち寄る。また来日中は寸暇を惜しんで買い物をするのは有名な話で、ブランドシューズであるレッド・ウィングのショップには来日ツアー中何度も訪れて(時には一人で訪れた)日本のみのモデルを合計10足以上買っていった(本人によると日本のサイズが丁度いいらしい)。またアルマーニに寄って棚一列全部買い占めたなどどという逸話がある。
〈コンクール〉という語は,〈競争試験〉を意味するフランス語 concours に由来する。
音楽コンクールの起源は非常に古く,神話などの中にも現れているが,現存の音楽コンクールは,すべて20世紀になって創設されたものである。
第2次世界大戦後は増加の傾向にあり,近年も続々とコンクールが新設されている。
作曲コンクールの場合は,楽曲の規模や形式, 長さなどを定めた規程に基づいて作曲し,作品の総譜を定められた期限内に事務局へ送り込むのがふつうであるが,最近は仕上がった作品をまず演奏して録音をとり,そのテープに総譜を添えて事務局に提出することが義務づけられているコンクールもある。
演奏コンクールの場合は,定められた課題曲を 審査員の前で演奏することによって審査を受けるのが一般的であるが,近年では予選の段階で録音テープまたはビデオテープを通じて審査されるケースが出現してきた。課題曲は既製の難曲の中から選ばれる場合が多いが,委嘱した書下ろしの新曲を必ず加えているコンクールもある。
音楽コンクールの権威は,組織の大きさや名声 によって決まるのでなく,それぞれのコンクールが送り出した音楽家の質によって定まってくる。コンクールの入賞者たちが大きく育っていけば,そのコンクールの名声が裏付けられてくるのである。
こうした実績面からみると,チャイコフスキー国際音楽コンクール,エリーザベト王妃国際音楽コンクール,ミュンヘン国際音楽コンクール,ジュネーブ国際音楽コンクール,ショパン国際ピアノ・コンクール(ポーランド,1927創設)などが群を抜いている。
音楽学(おんがくがく)とは、音楽に関する学問的研究のことである。 対象は西洋音楽とは限らず、民族音楽をも含み、大きくわけて歴史的研究と理論的研究、また自然科学的研究がある。
今日のような意味での、実証的で体系づけられた学問としての音楽学の基礎が固まったのは、19世紀後半である。
音楽についての研究自体は、古代ギリシアに始まり、中世ヨーロッパにおいても自由七科(septem artes liberales)のひとつとしての音楽の理論的研究は盛んであった。
だが、中世においては、音楽が算術、幾何、天文学とともに数学的四科のひとつであったこともあって、どちらかといえば、音程、音の長さなどが興味の中心であった。すなわち、いわば自然科学的音楽学というべきものが発展し、今日のようなたとえば様式研究などはされることがなかった。
この傾向は、ルネサンス時代以降も続くが、18世紀に至って今日の意味での音楽学の萌芽がみられはじめ、 19世紀後半、ヤーコプシュタールやアードラーによって、歴史的音楽学(音楽史、特に西洋音楽史)と体系的音楽学(楽典的研究や和声・対位法などに関する研究)に分けられ、今日の音楽学が基礎づけられた。
研究対象や方法によって、美学、美術史、記号学、心理学、社会学、文化人類学、物理学など、他の学問分野からの影響を受けたり、その方法論を援用したりする。